「正欲」の映画を観て、“普通”について考えた。
朝井リョウさんの原作もすごく好きだったけど、小説内で印象的だった言葉が映画内で上手いタイミングで使われてたし、小説の空気感がそのまま映像になっていてよかった。やっぱり端折られてる部分はかなりあるし、それは仕方ないんだけど、水フェチがどういうものか、を理解するには小説より映像の方が分かりやすかった感じがする。本も映画も私はどっちも好きです。多分本も読んで映画も観て、ってすると理解度深まる。
ただこの作品はやはり万人受けはしないね、普段映画の好み合う人でもこれは1ミリも共感できんかったし本当に意味わからんかった、って書いてた。誰が良くて誰が悪いかとかは全くないけど、こういう作品を好むかどうかで自分と同じ側の人間か否かが分かってしまう、批判してる人は悪だ!嫌いだ!とかじゃないよ、ただ見てる感じてるものが違うな、って気づく。私はきっと普通の人間だけど、普通の人生は多分歩めてなくて、だから映画内でガッキーや磯村勇斗さんが演じてた役にはものすごく共感した。毎日生きてるけど、いわゆる“普通”のことを全然できてない気がする。何なんだろな、何の疑問も抱かずに物事を受けいれることが偽りのように感じることが昔から多くて、その結果ちょっとずつ道を外れてしまって今ずれにずれて苦しい笑、自分は人とは違うって思ってる人は私含めすごく多いと思うけど、皆何だかんだ“一般的”なことをやってたりする。何をするにしても勇気が要ることだって分かるから、皆それぞれした選択がそれぞれ正解なんだろうけど、俺は人と違う苦しいとか言いながら普通に恋愛してる人とか見ると、全然普通に生きてんじゃん、って勝手にがっかりする。まあ普通の定義が分からないけど、私の中では例えば、就職して結婚して子供産んで、がやっぱり普通の生き方のように感じてしまってる部分があって、その中で皆それぞれ葛藤があるのはもちろん分かるんだけど、私はそれすらできてないから、ずれてて苦しむ、時々、自分で選んで今があるはずなんだけどね、傲慢だよね。私は恋愛対象が異性だから、大勢に理解される側の人間だと思う、この作品内に登場する人からしたらきっとものすごく“普通”で、でも彼らの感じてる絶望や諦めのようなものも分かる、人生がいきなりスパって切られても別にいいやって私も思ってる、分かってる自分が繊細ですごいとか言いたいわけじゃ決してないです、ただ分かる、私はずっと彼ら側の感情の抱き方をしてる。ちゃんと生きてるけど、その一方で全部だるいし世界きもい、って思ってる。きっと何もかも意味がなくて、考えても無駄なことが世の中多すぎて、だから良い意味で適当にその場その場の結果を受けいれられたら“普通”のレールに乗れるんだろうけど、それができない人もいる、でも乗れても乗れなくても別に良いよね、他人があれこれ言うってことがダメなんだ、小説内に「ほっといてほしいんです。ほっといてもらえれば、勝手に生きるんで」、って文章があるけど、これは皆が肝に銘じておくべきことだと思う、理解する努力をするのはもちろん大事だけど、努力をしたうえで、ちゃんとほうっておく。
普通の基準って人それぞれ違うから、自分にとって良いことをするしかなくて、それが世間の普通じゃなくても、自分にとって普通ならそれを貫いて大事にする勇気が要る。そもそも普通、がないのかもこの世には。ただどんな場所でも少数派ってしんどくて、だからこそこういう作品がこの世にあるのは有難い、救われるから。映画観て、久々に小説も好きなページ読んで、すっきりした。何書いても偉そうな感じがするし、私の意図してるものと違う伝わり方をしてしまったら嫌だけど、映画を観て考えたことを書いた記事でした。生きづらさ、を来週sum41のライブに来てる人皆と共有して、バンドに世間の枠とかをぶっ壊してもらおう、こうやって自分を理解してくれてるであろうものを大事にして生きていけばきっと大丈夫、金曜日チケット番号発表だ!
(今日のタイトル: ordinary things/Ariana Grande ft. Nonna)
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