つまり、きみは、彼らが象徴してるものを軽蔑するだけじゃない。彼らそのものまでを軽蔑するんだ。それでは人身攻撃にすぎるよ、フラニー。本当だよ。
たとえば、タッパーの話をするときのきみの目、まるで人殺しをする奴のように本当にぎらぎら光ってるぜ。彼が教室へ来る前に、手洗へ入って髪をもじゃもじゃにするという話。これは全部何から何までおそらく事実だろう。彼についてきみから聞いたほかのすべての話とよく符合するよ。だからぼくはうそだと言ってんじゃない。しかし、きみの知ったこっちゃないだろう、彼が自分の髪をどうしようともさ。彼の気取り具合がいささか滑稽だというふうに考えれば、それですむことじゃないか、ある程度。
これは私の好きな作家、J.D.サリンジャーの本「フラニーとズーイ」の一節なんだけど、SNS上とかで悪口言ってる人を見るたびにいつも思い出す部分。
好きなら好きでいい、嫌いなら嫌いでいい、皆が同じものや人を好きなんてことは絶対起こらないことだし、それぞれ好きなものがあって、それでいいと思う。私だって、毎日のように心の中で悪態つきながら生きてるし(笑)、腹立つことだってたくさんあるし、気に食わない人もいるし、でも誰がどうしようともどうでもいいやって思って過ごしてる。好きなものだけ見てればいい。嫌いなものに神経使うのはしんどい
あと、表面しか見てないのに色々言う人が本当に苦手。昨日もちょっとtwitterに書いたんだけど、その人の話とか聞いて初めて知ることがある、それで、へーこんなこと考えてたんや、って初めて思って、もっと興味がわく。逆もあると思う。深く知って余計嫌いになった、とか。でもそれでもいいと思う。人それぞれやし。ただちょろちょろっと見たり聞いたりしただけで、あーだこーだ言う、ましてやSNSに書くのはずるい。傷つく。たとえ知らない人でも、というか知らない人やからこそ悪口言われるのは悲しい。
もっと皆、他人を思いやるべき。物事の裏側を想像する優しさがあってもいいと思う。
こんなこと書いてたらselenaのkill em with kindness流れてきた(笑)
まあtwitterとか気軽に自分の気持ち発信できるし、思ったことなんでも書いていいみたいな風潮もあったりするけど、私はちゃんと言葉選ぼうと思う。自分が嫌いでも、それを好きな人だっておるわけやしね、誰でも見れるからこそ、他人を思いやるようにしたい
そして自分の好きなものは自分でちゃんと見る
:)
0コメント