あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。
「推し、燃ゆ」
今日、ようやく宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」を読んだ。萌ゆ、ではない、燃ゆ、だ。推しが炎上する話である。最近、自分という容器に嫌気が差していたので、ブログを書くこともしばらくやめようと思ってた、書きたいことは1週間後、2週間後にでも書くつもりだった、でもこの本の主人公は毎日ブログを書いて推しを愛でている。同じツールを持っている私だけ黙ってるわけにはいかない、と謎の闘争心が芽生え、その勢いのままパソコンを開いている。編集ページを開けると、いつも腕まくりをしてしまう、書くぞ、という気合い。いつもブログに書いてることを、理解してもらおうなんて気は正直全くなくて(分かってもらえないよりは分かってもらえた方がいいなとは思うけど、ブログ更新の主な理由は自分の気持ちを整理するため)、でも病める時も健やかなる時も、私はブログを書くのが好きらしい。
前置きが長くなったが、先月の25日は福岡であったfive new oldのライブに行ってきた。先月下旬から、九州はコロナウィルスの感染が爆発しており、私の住んでいる大分県は過去最多という文字が毎日のように全国ニュースで踊っている。バンド側も開催を悩んだと思うけれど開催をしてくれた、あとはファンが行くか行かないかを決めるだけ。行けなかった人もたくさんいると思う、正直仕方ないし、誰のせいでもない。私も前日まで行けないのでは、という出来事があったのだけど、その悩みは消えたし(運が良いのでね私)、とにかく気をつけて行くことにした、これだけは譲れなかったし譲りたくなかった。
FiNOのライブは約1年半ぶりだった、そもそもライブというものが久しぶりだから、あの空間に行けたことがまず幸せだった。世間ではライブハウスは悪く言われているけど、あんだけ徹底して気をつけてるの見てから言ってくれよと思ってしまう。でも仕方ないんだ、ああいうのを口にする人は音楽に救われた経験のない(ある意味幸せな)人だ、こっちの気持ちは分からない。とにかく私は幸せだった、し、来てる人も皆幸せそうだった。
新しいアルバムからの曲を中心に、大好きな曲がたくさん聴けた。声が出せない代わりに、ちゃんと観た(いつもちゃんと観てるけど)。整理番号的に最前余裕だったんだけど、ホテルで友達とだらだらしてたらだいぶ開場時間過ぎちゃってて後ろで観た、でも後ろの方がよく見える、と最近学んだ、ステージも、周りも。主観的にも観られるし、第三者的視点?でも観られる。偉そうだけど笑、そういう視点でも少し観た、今回は。
全部良かったけど、chemical heart、my house、how to take my heart outあたりの流れが特に好きだった。かっこいい、なんて感想は当たり前すぎるし、どこが良かったの?なんて質問も愚問だ、全部だよ全部。きらきらしすぎて、夢を見てる感じだった、二時間弱あったんだけど、すぐ終わった感覚、ライブを観てるといつも終わらないでと願ってしまう、無理なのは分かってるけど、そんな望みすら抱いてしまう。
友達が、年々holeをしなくなるね、って言ってたけど、曲数が増えると、しなくなる曲が出てくるのが残念、仕方ないけど。前はEPの曲全部聴けたりしてたのにな、その頃のライブに行けてた私は幸せだ(セトリも今も大切に取ってある)。でもあの曲やってほしいから、私にセトリを組ませてくれないかななんてこともたまに考えてしまう(こんな偉そうなことを言えるのはAvrilとFiNOくらいだ、ファンに順位をつけるつもりはないが、この2組に限っては知り尽くし度?は私は上位から数えた方がきっと早い)、でもそれでも聴けない曲はやっぱりあって、あの曲が好きだった私、がたまに救えなくなる。新しい曲が好きな私、には出会えるけど、そういうことを思うと、ライブとは、音楽とは、超期間限定の生ものだなと感じる。
17時半スタートのライブは、19時半前には終わって、4月末の夜はまだ夏の匂いもせずにひんやり寒かった。どうしてライブは夜に終わるんだろう、ライブ後に夜道を歩くのはたまに寂しくなる。友達がいたから話しながら帰れたけど、もし一人だったら、一人で余韻を抱えて帰るのはきっととんでもなくきつい。
ライブに行った後、楽しかった、の感想だけで終われない私は不健康だし、おかしいと思ってたんだけど、「推し、燃ゆ」を読んでかなり救われた部分がある。この本の主人公は、推しは自分の背骨だ、と口にする。それくらいの存在である、と。この表現を理解できた人、気持ち悪いと思った人、色々いるようだけど、私は彼女の気持ちがすごくよくわかった。ああこういう感覚の人は私だけじゃないんだな、と、一般的に見ると歪んでて痛い感情は、この本で(そしてこの本が芥川賞を受賞したことで更に)認められた。だから私は今この記事を書けている部分がある、こういう感性は(感性と言って良いほどのものか分からないけど)、私の特徴だし、大事にしようと思った。破滅的ではあるので、100%良いかはわからない、実際この本の主人公もタイトルから想像できるように、ハッピーエンドを迎えはしない、なんたって推しが炎上するんだから。自分も推しと一緒に散る。でも散った自分と、折れた背骨を、ちゃんと集める。自分が嫌いですって前の記事に書いたけど、自分を認めていたら、背骨はここまでボロボロにはならない、と今なら分かる。好きなアイドルやアーティストを推すと同時に、自分のことも推さないといけない。
私たちの感情を揺さぶる推し、は、尊くて、愛おしくて、大切。
ネタがそうあるわけでもないのにブログを毎日更新した。全体の閲覧数は増えたけど、ひとつひとつの記事に対する閲覧は減る。SNSを見るのさえ億劫になってログアウトする。閲覧数なんかいらない、あたしは推しを、きちんと推せばいい。
「推し、燃ゆ」/宇佐見りん
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