感想文が得意だった。
何かを読んで、何かを観て、感じた自分の気持ちを書くのが得意、だった。
これを読んで、これを観て、私の気持ちはこう動いた。今こんなことを思っている。こういうことを書くのが好きだし、得意だ。でも感じていることを、人に直接言うとなると言えない。こんなふうに思われるかもしれない、と余計なブロックがかかって、怖くなる。馬鹿だと思われるのも、つまらないと思われるのも、嫌われるのも、全部怖い。被害妄想が過ぎると言われそうだが、止まらない。とにかく、私は人に直接気持ちを話すことが苦手だ。他人の顔色を伺いすぎる。気にしすぎている、と言われる、心を開け、とも言われる。でも心を開く方法、が私には分からない。いっそ頭を割って、心臓を切り開いて、文字通り体を開いて中身を見てもらった方が楽だ。こういうところも、自分を認めてない所以だと思う。自分でいるのが心地よければ、他人にどんな顔されようと、自分の気持ちが話せるはずだ。だから全ての結論はここに至る、何もかもが、ここ。自分を認めろ好きになれ、だ。
これに関しては散々言ってきたので、ここではこれ以上書かない。今日書きたいのはそのことではなくて、自分の気持ちを話すことについてだ。
SNSを更新してないと、ストーリーに足跡がつかないと、死んでるんじゃないかと思った、と言われることがある。冗談にしろ、本気にしろ、とにかく私が死んでると思った友達が、今日会いに来てくれた。彼女は私のブログを読んでない。だから、「あんなこと書いとったね」、「そういえばあんなん言っとったね」、という会話がない。あなたはこれを知ってるでしょ、それプラスの情報を教えますね、が成り立たない。ゼロから全て話すしかない。
仲の良い友達相手でも、私の頭がきちんと回り口が動くまで時間がかかる。今日も上手く話せたかはわからない、でも何度も回り道しながら話す私に一生懸命耳を傾けてくれて、アドバイスもくれた。おかげでここ最近引きずっていた体の重さが少し取れた。
その子はいつも、「萌子は良い子やから大丈夫」とおまじないのように言ってくれて、それで私はいつも楽になる。私からすると、翻訳の試験に受かったからと言って(まだちゃんとしたのには受かってないのにもかかわらず)、大きな花束を持ってきてくれるその子の方がよっぽど良い子だし、他にも私がSNSを見てないのを知っていて、Avrilの新しい写真をわざわざ送ってくれたり、ライブのことと合わせて私のことをブログに書いてくれる友達だって良い子である(ちなみにその記事はこれ。)
やばいめっちゃしんどいどうしようと唐突に電話をかけても、笑いもせずふざけて答えることもせず、ただ平気?と声をかけてくれる友達も良い子だ。私は自分が内向的なことがすごくコンプレックスだったが、内向的な人は、自分に合う人を見つけて崩れない関係を結ぶのが上手い、と書いているものを最近見つけて、内向的でいいじゃんと今なら思っている。何事も文脈による。
感想文を書くのが得意だった私は、きっと練習すれば相手に上手に話すことも得意になるんだと思う。でも、もしできなくてもそれはそれで良いのかもしれない。伝えようという気持ちさえ汲み取ってもらえば、分かる人はきちんと分かってくれるはずだ。高校時代、国語の先生が私が書いた文章を匿名で授業の教材(例文?)として使ってくれたことがあった。でもそれを添削した某予備校は、私の文章にD判定を下した。文章の書き方云々がダメだったからだろうが、少なくともその先生には響いたことが分かったのでどうでもよかった。分かる人に分かれば。伝わりさえすれば。ある種暴論な気もするが、私はそれで良い。味方が一人でもいれば、話を聞いてくれる人が一人でもいれば、なんとなく、生きても良いような気もする。
(今日のタイトル: now now now/A Story Told)
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