the more i hide my scars, the easier i bleed


忙しさが途切れた瞬間を狙われた。さっと黒い布をかけられたように、目の前が暗闇になる。それを払いのけるのに、以前ほど時間はかからなくなったものの、この状態になるとやはり苦しい。大丈夫、と、大丈夫じゃない、が交互にくる。


Netflixで無法弁護士の配信が始まった。EP8あたりから字幕のズレが起こっていて(思わずネトフリ側に報告したら、同じ報告が何件も来てるそうで早急に対応するとのこと)、だから今はストップしているけれど、もう自分の名前を2回観た。今日はワクチン接種をしたから無理はせずのんびり過ごそう、と理由をつけてお風呂上がり髪を乾かしてすぐベッドに寝転がっていた怠惰な私も、名前が出る前はさすがに正座をした。嬉しかった。英語圏じゃi'm proud of myselfと自分に言う人をよく見かけるけれど、本当に自分に対してそう思った。でも、自分が自分を認められればそれでいいと思うと同時に、でもこの人にだけは、あの人にだけは、認められたいという気持ちがあることにも気づいた。こう思う私は承認欲求にまみれた汚れた人間だろうか。書いてて嫌になってくる。






自分がどうすれば満足するか、をいつも探っている。これじゃダメだと思って目が潤むのは、向上心だろうか、それとも不足感からだろうか。周りを見れば、上手く人生を生きている人だらけで(もちろん皆色々あるのだろうけど、でもそれでもやっぱり上手く見える)、ではどうして私はこんなにへなちょこなのかと、今日も考えた。久しぶりに観ている「ウォールフラワー」は、私にやっぱり優しくて、せめて壁の花でありたいと願った。Emma Watsonみたいに可愛ければ、私は幸せだっただろうか。この前読んだ、木爾チレンさんの「みんな蛍を殺したかった」の中に、こんな一節があった。





「雪は、顔が可愛かったら、幸せになれるって思う?」

ふと、はじめて二人で話した昼下がりに、問いかけられたことを思いだす。

もしかしたら蛍は今、幸せではないのだろうか。


でもうちは、今より不幸になったとしても構わないから、蛍のように可愛くなりたいし、可愛く生まれたかった。

一度でいいから、可愛いというだけで、誰かに愛されてみたかった。






この文章がやけに刺さって、木爾チレンさんを検索した。noteをしているのを発見して、いくつか記事を読んだ。自分の闇をさらけ出す文章は、痛くて、悲しくて、でも私にとっては光だった。中でもこの小説のことを書いた記事は、私を救ってくれた。



向上心もある、でもまだ不足感もある。ちょっと押されただけで、足元がぐらつく私は、まだまだ弱い。でもぼーっと生きているつもりはないし、少なくとも闘ってやるという覚悟はある。可愛くなりたいし、もっと仕事はしたいし、もっとお金だって欲しいし、誰かに頭を撫でられたい。これを汚い欲と呼ぶか、貪欲さと名づけるか。自分を奮い立たせることができるなら、もうなんだっていい。止まったらきっと私はダメになってしまう。だから、




(今日のタイトル: @ my worst/blackbear)